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「分ける」と「分かる」をたとえると

「分ける」と「分かる」。なるほど、言葉ってよくできていますね。確かに分からなかったものが分かるとまるでカメラのピントが合っていくように、対象の姿かたちの境界線がはっきりして、対象以外のものから分離されていくような感じがします。  前の記事で書いた晩御飯の献立を具体化するための質問をよく見てみると、晩御飯として考えられるさまざまな献立をいくつかに分類して相手に選んでもらって献立を絞り込んでいます。「和食、洋食、中華」は料理のスタイルで、「肉か魚か」はメインディッシュの主な食材で、「食べられないまたは嫌いなものとそうでないもの」は、相手が食べられるかどうかで分類したものです。こうしてみると、違う分類の仕方で質問していくほうが効率よく具体化や絞込みができるのかもしれません。    と、ここまで書いたところで、「この人はわかってないなあ」と感じるケースが前の記事で書いたケースの他にもあることに思い当たりました。  1つ目は「和食、洋食、中華のどれ?」と聞かれずに「洋食と中華のどっち?」と聞かれる場合です。つまり、献立全体を大きく分類したときにどこかの分類がすっぽり抜けていて、思わず「和食はどうしたの?」と突っ込みたくなります。  2つ目は「肉か魚のどっち?」と聞かれずに「肉か丼のどっち?」と聞かれる場合です。つまり、違う分類のものを組み合わせているせいで分類間がきれいに分かれずに重なりができていて、「すき焼き丼はどっちって答えればいいの?」と突っ込みたくなります。  どちらの場合も、この人は献立をあまり知らないないぁ、料理のことをよく分かってないなぁと感じますね。  このように、「分かる」ための分け方は、ただ分ければいいというわけではなく、抜けや重なりがないように、きれいに分ける必要があるようです。これはロジカルシンキングでいうMECEの考え方に一致しているのではないでしょうか。

「分ける」と「分かる」

koppeさん、絞込みや具体化は大事ですね。まさにそう思います。  ところで、この絞込みや具体化とはどういうことなのでしょう。たとえば「犬」という言葉があります。しかし、これだけでは概念であって「目の前にいる犬」という具体的に実在しているものを指しているわけではありません。「犬」という言葉であらわされる概念は実在しないのですね。人間の頭の中にだけ存在するのですね。  ところが、「目の前にいる犬」これは実在します。英語ではこの実在するものと実在しないものをdogとthe dogとして文法的に明確化しています。特定の言葉ではありますが、人類の歴史が作り上げた言葉という世界にこのことが織り込まれているのですね。それほど重要な考え方なのだと思います。  知的生産性が0になるゴール設定と知的生産物が生まれるゴール設定の違いは、この例でいう「犬」や「黒い犬」と「目の前にいる犬」の違いにあたるのではないかと思います。  では、この概念と具体の中間に位置づくものとしてはどのような概念があるのでしょうか?それが絞り込みになるんだと思います。たとえば「黒い犬」、これは単なる「犬」よりは犬全体からその範囲が絞り込まれているため、それよりは具体かされて言えると思います。逆に、「目の前に存在する犬」という世の中で唯一の存在に比べれば抽象的であるともいえます。  これは、集合の概念を考えればよくわかりますね。「犬」は「黒い犬」を包含し、「黒い犬」は目の前にいる犬が黒ければその「目の前にいる犬」を包含している。包含しているほうがより抽象化されているし、包含されているほうはより具体化されているともいえます。  ところが、これを別の観点から見ると、この抽象から具体への具体化や絞込みという過程において非常に重要な思考過程があります。それは「区別すること」、「分けるということ」です。さきほどの例でいうと「犬」から「黒い犬」に絞り込む過程で。「黒い犬」と「黒くない犬」を分けているのですね。  ここで注目して欲しいことは「分ける」とい言葉です。「分かる」と同じ漢字が使われているのですね。この漢字が同じことを意味していると解釈すると、「分かる」といことは「分ける」と同値であるといえます。 dog から the dog に具体化する過程で「分ける」の思考過程を経て結果「分かる」に至る。  このようなことが言える

3つのゴールをたとえると

何のために、いつまでに、どんなものを、どのくらい作らないといけないか?自分の場合もmokurenさんの場合も、まず、(1)、(2)のステップで作業のゴールを設定しようとしていますね。  知的作業のゴールは、「これと同じものを作ってください」というわけにはいかなくて、せいぜい「これと似たようなイメージで、○○なものを作ってください」というのが精一杯。つまり、ゴールの形が常に一定ではない。そのため、まず、ゴールを定義しないと何をすればいいのかが判断できないのでしょう。  これはたとえていうなら「晩御飯をつくってね」と頼まれて料理を作るのに似ています。「晩御飯」といわれても、献立の選択肢はいろいろあるわけで、献立を決めないと料理は作れません。  mokurenさんがあげた知的生産性0の3つのゴールのパターンを無理やり「晩御飯」の事例に当てはめるなら、以下のようになるでしょうか。 ・思い込みのゴール  「晩御飯といえば、カレーライス!カレーライスに違いない」または「私はカレーライスしか作れない。だからカレーライスに違いない」という理屈で献立を決めてカレーライスを作った挙句に、頼まれた人に「私はカレーライスは嫌いなのに。。」といわれてしまうケース ・幻のゴール  献立を決められないので「とりあえず料理に着手すれば献立がきまるかも」とたまねぎを切ったはいいが、具体的な料理が思いつかずに延々とたまねぎを切っているケース。 ・授かりのゴール  「時間がたてば思いつくだろう」と思いつつ洗濯や掃除をしているうちに、晩御飯の時間を過ぎてしまうというケース。  こんなことにならないように、「晩御飯をつくってね」といわれて相手の望む献立を決めるには、「お昼は何を食べたの?」「嫌いなもの、食べられないものはある?」「和風、中華、洋風のどれがいい?」「魚と肉ならどっちがいい?」「どのくらいの時間なら待てる?」、あるいは「今ある材料だとスパゲティかチャーハンかカレーライスなら作れるけどどうする?」等の質問をして、献立の候補の範囲を絞っていき、「じゃあ、酢豚でいい?」と確認してから料理を作れば、あとは料理の上手下手だけの問題になる。  そういえば、「まともなアウトプットがでそうにないな」と感じるときは、上の例のような質問が返ってこなくて、「晩御飯ですね。わかりました。作ります。」という返事しか返って

知的生産性が0になる三つのゴール

 細部は異なるかもしれないけれど、だいたい同じような感じかな。特に(1)、(2)については、ほとんど同じじゃないかと思う。(3)、(4)は試行錯誤している感じが強い。それでも、自分の頭の中にストックみたいなものがあって、それをとっかえひっかえ取り出してきてはパズルをはめ込んでいる、そんな感じかな。それで行き詰ると人に相談する。   でも、このような作業をすることになって「わかりました」と言ってアウトプットがほとんどでてこなかった人に、「なぜ?」と何回も問いかけその理由を確認していくと、まず、(1)や(2)の観点がほとんどない。 あるべきアウトプットの姿があるものだと思い込み、いきなりその思い込みに向かって闇雲に走り続けているような感じなんですね。  この場合、結果としては大きく分けて二つパターンがあるように思えます。 一つ目は、思い込みというゴールに向かって走り続けたけど、そのゴールが明確にならずアウトプットができなかった、というパターン。二つ目が、その二つ目が、思い込みのゴールが明確になりゴールに到達したが、そのアウトプットがまわりの期待していたものと大きくずれてしまっていた、というパターンです。  また、一つ目はその過程を分解すると、一生懸命ゴールと思われるものに向かっていき力尽きるパターンと、ゴールと思われるものに向かって進もうとすること自体を先送りするパターンの二種類がある。それらにあえて名前を付けると、  ・ 思い込みのゴール(周りの期待とは異なる自己中心的なゴール)  ・ 幻のゴール(遠くからみるとゴールに見えていたものが近づくとそうではないとわかるゴール)  ・ 授かりのゴール(時間が経過するとそのうち見えてくるというゴール)  これら三つのゴールへ向かうことは、ある経過時間の範囲において問題はないと思います。そもそも、その状態存在しないと、新たな発想は生まれてこないじゃないかと思います。しかし、いつまでもその状態であれば、知的作業におけるアウトプットが「意味をなさない」、もしくは「ない」といた知的生産性が0の状態に陥ってしまうのではないのでしょうか。  結局、これらの頭の中にある三つのゴールの状態をいかに早く脱却し、周りの期待と同じ意味のゴールとして明確化できるか、それが知的生産性を向上させる大きなキーであるように思えます。

ある知的作業の手順

 「他の人のわかったつもり状態をどのように判断しているか」が次のお題になりました。 おそらく、その判断をする際には自分と他の人を比べているはずですから、まずは自分がどのような思考手順で知的作業をしているかを振り返ってみます。  たとえば、次回客先打ち合わせ向けの資料を作成するとき、自分は以下のような手順で資料を作成しています。 (1)最初に、プロジェクトの全体スケジュールを考えたときに、次回打ち合わせで何を決めないといけないかを影響範囲や緊急性や依存関係等を考慮しながらリストアップします。 (2)次に、リストアップした項目のそれぞれについて作成する資料の目的を考えます。 資料はその目的ごとに以下のようなものに分類できます。  a)顧客の理解を深めるための情報を提供するもの  b)顧客から必要な情報を引き出すためのもの  c)顧客に問題提起をして議論をしてもらうためのもの  d)いくつかの案の中から、顧客に選択をしてもらうためのもの  e)こちらの提案内容を顧客に承諾してもらうためのもの (3)最後にそれぞれの目的にあわせて、資料の出来上がりイメージや表現方法を具体的に考えます。たとえばb)の場合は穴埋め式や添削式、d)の場合は複数の案を○○の観点で対比させる、などです。 (4)個々の資料を作成します。作ってみないとわからないものは、少し作ってみてから書けそうかどうかを判断し、書けそうでなければ他の人の協力を仰いだり、(1)から(3)を見直したりします。  これらと同じような作業を他の誰かがするとき、その人の作業や言動の何を見て、どこを比較して、その結果どのような違いがあったとき、「まともなアウトプットがでそうにない」と判断しているのか。それは、次回もう少し考えてみようと思いますが、mokurenさんの場合の思考手順はどうなってますか?

対談:わかったつもり状態は自己判定できないのか

mokuren :  ここまでは、「わかる・わかない」から「わかったつもり」を紐解き、それが外界からみてどのように判断できるのかを検討し、一つの結論を得たよね。 koppe :  結論というと? mokuren :  自分では、「わかったつもり」の状態であることが判断できないことです。 koppe :  そうですね。 でも、プロの作家とかは、ちゃんと自分のアウトプットすべきもののレベルを知っていて、それに向けていろいろ調べたりしてるよね。その作業の中には、わかったつもり状態は存在しないのかな? mokuren :  そこなんです。いわゆる、その道のプロとか、もっと身近に言えば、あの人はできる、っていえるような人は、別に第三者からのチェックがなくてもわかった状態で知的作業をはじめていますよね。それが、いままでの検討の結論と異なっている。 koppe :  何がちがうのかな?周囲の期待レベルをいちいち測らなくてもプロとして期待されているレベルというのを知っている? mokuren :  そうなんだと思う。自分の「わかった」という意識とは別にもう一人の自意識があって、その意識が第三者となって本来要求されている水準で、本来の意識である自分の「わかった」という状態をチェックするというような感じかな。 koppe :  もう一人の自意識が、以前の話題で出てきた絶対値に近い基準値を与えてくれるのかな。 mokuren :  そのような気がする。ただし、その絶対値も本当の意味での絶対値ではなく、経験に裏打ちされた、ここまでわかっていれば問題ない、という意味での絶対値だと思うけど。 koppe :  じゃあ、わかったつもりを自己判断しようとしたら、自分の中にここまでわかっていれば問題ないと判断できるもう一人の自意識をつくらないといけないってこと? mokuren :  そうだと思う。逆にそうであれば、「わかったつもり」の状態にあることを第三者にしか判定できな人も、「わかったつもり」の状態であることが自己判定できる人も、その判定の方法は同様に考えることができる。 koppe :  同じ判定を自分の中でやるか、第三者がやるかの違いだけ、ってこと? mokuren :  そういうこと。 koppe :  じゃあ、同じ判定っていうのは、どんな判定なんだろう? mokuren :  それはまだ

わかったつもりの判別は他力本願?

ということは、自分の意識空間では、   ・自分はわかる→「わかった」状態   ・自分はわからない→「わからない」状態 の二つしかないと言うことですね。ところが、第三者の意識まで考えると、   1.自分はわかるし第三者もその人がわかっていると思える→「わかった」状態   2.自分はわからないし第三者もその人がわかっていると思えない→「わからない」状態   3.自分はわかるが第三者はその人がわかっていると思えない→「わかったつもり」状態 の状態があって、3の状態がわかったつもりであり、だから、わかったつもりを自分自身で判断することはできないと言われているのですね。  では、次の状態はどんな状態なのでしょうか?   4.自分はわからないが第三者はその人がわかっていると思える→「????」 状態 これはよくわからないですね。もしこの状態を強引に認めて仮に名前をつけるとすれば「わからないつもり」とでもなるのでしょうか? いや、そうともいえないですね、この状態もあり得ますね。「知ったかぶり」ではないでしょうか。ただし、第三者がわかっているんだなと思えるぐらい上手に知ったかぶった場合に限りますが。  したがって、   1.自分はわかるし第三者もその人がわかっていると思える→「わかった」状態   2.自分はわからないし第三者もその人がわかっていると思えない→「わからない」状態   3.自分はわかるが第三者はその人がわかっていると思えない→「わかったつもり」状態   4.自分はわからないが第三者はその人がわかったと思える→「知ったかぶり」状態 が完成形となります。  でもこれだと、つねに第三者の目がないと、わかったつもりを自分で判別することはできないですね。「わかったつもり」ということにたいして一歩考察が進んだように思えますが、これでは自分だけで知的生産性を向上させるということができません。つねに第三者の力を借りなければならないことになってしまいます。

わかったつもりを検出するための判断基準

「わかったつもりの状態を検出する。」には、確かに検出するための判断基準は何かを考える必要がありますね。人はどんなときに他の人の知的作業にムダを感じるのでしょうか?  たとえば、ある人が書いた40行の議事録をレビューした結果、修正箇所は2箇所あった。このときは議事録を作成した作業にムダがあるとはあまり感じません。しかし、修正箇所が30箇所だった場合、議事録を書く作業自体がほとんどムダだったと感じる。  ところが、これが育成中の新人が書いた議事録だと修正箇所が20箇所でも、「新人にしてはよくできたほうだ」と感じて、新人が議事録を書く作業をムダだったとは思わない。  つまり、仕事においては、知的作業を行う人に対して期待するアウトプットのレベルというのがあって、それとのギャップが、ある閾値を超えると、その人の知的作業にムダが多いと感じる。つまり、個々の人の立場や経験年数などいろいろな要素によって、周囲の人の期待レベルが決定され、ムダの判断基準が変わるということになる。  加工機械であれば、たとえば、同じ加工機械はすべて「単位時間当たりの加工個数が何個から何個の範囲でなければ異常とみなして自動停止する」という判断を組み込むことができる。   知的作業の場合の「わかったつもりの検出」の難しさは、  ・わかったレベルの判断が人ごとに異なり、絶対値では定義できないこと。  ・それが作業者本人の基準ではなく、周囲の人たちの期待値であること。 にあるような気がします。

わかったつもりは検出されていない?

 「わかったつもりの状態を検出する。」、これって非常に難しいですよね。しかし、検出されていないかといえばそうでもない。  たとえば、議事録などがそうじゃないかな。議事録はその会議に参加した人のうちの誰かが書きますよね。ところが、その書き上げられた議事録の内容を他の参加した人たちが見ると、ここの「記述がおかしい」、「この内容が抜けている」といった指摘がおこり、議事録を書いた人の「わかったつもり」の状態を指摘します。このように考えると「わかったつもり」の状態は日常の仕事場においてそれなりの検出がなされているんじゃないかと思う。   ところが、これを知的生産性という観点から見ると三つの問題があるように思える。一つは、そもそも指摘を受けることがない状態でその議事録が書かれていたら、それを修正するという追加の知的作業が発生しない、ということ。つぎにそれに付随することであるけれど、指摘する、という追加知的作業が発生すること。それにもう一つは、そもそも何をもってすれば指摘されない状態であるのか?、ということを判断する基準。  前者の二つは、そもそも知的作業は一人の人間では完結しないということが普遍的であると捉え、さらにそれにたいして「わかったつもりの状態を検出する。」という作業もそれに付随して発生する普遍的な知的作業であると捉えると、ムダでなくなってしまう。しかし、そのことを普遍的に捉えず、書き上げるより前に「わかったつもりの状態を検出する。」ということを考えれば、そこにはムダが含まれるという考え方が生まれてくる。  三つ目は、その前者二つの考えのどちらを採用すべきかの判断規準が作れるか?ということの問いかけになると思う。もし、指摘される状態がどういうものか予め設定できないのであれば、書き上げたものにムダは存在しない。逆に、指摘される状態がどういうものか予め設定できるのであれば、それにはムダが存在する、といえるのではないのかと思う。  「わかったつもりの状態を検出する。」を突き詰めるのであれば、このあたりを検討していく必要があるんじゃないのかな。

「わかったつもり」と「ムダ」

わかったレベルの違いは、プライベートであればあまり実害はないのかもしれませんが、こと仕事になると求められるアウトプットを出力するのに十分なわかったレベルが要求されますよね。  わかったレベルが不十分なのにわかったつもりになっている状態では、多大な時間を消費したあげくにアウトプットが出ないか、求められたものと異なるアウトプットが出ることになります。つまり燃料を使いながら空回りするまたは不良品を生産し続ける機械みたいな状態ですね。これが知的生産性という観点でみると重大な「ムダ」になるわけです。  機械の空転によるムダを排除する方法として、かの有名なトヨタ生産方式で重視されている考え方が「にんべんのついた自働化」です。「にんべんのついた自働化」とは、空転する前に機械が自ら不具合を見つけて自動停止するという方法です。  しかし、知的生産作業における空転状態の「わかったつもり」の状態を検出する方法は、ほとんど考えられていないのが現状ではないでしょうか?知的生産性の向上を考えるには、このことを真剣に議論する必要があると思います。

似たような話

そのことに似たような話は、養老孟司さんの「バカの壁」にも書かれているよね。冒頭の方に出てくる出産の話が印象に残っている。医学生に出産のビデオだったかなそれを見せて感想を述べさせると、男子学生は本に書かれているような通り一遍の感想しか言わないが、女学生に述べさせると非常に細かい個性ある感想がたくさんでてきた、とういうような話だったと思う。同じ情報を入手したにも関わらず、受け止め方というか、わかったレベルというか、それが大きく異なる。  また西林克彦さんの「わかったつもり」でも、小学生の国語教科書の抜粋からの文章にたいして、通り一遍読んだだけのわかった状態と、いろいろな観点からその書かれた内容を精査した後のわかったレベルの違いが書かれているよね。これなんかも、そのおばさんの行動の変化に通じるものがあるんじゃないかな。  おばさんの例ではアルツハイマー病というものを起点にした問題をどのように解釈するかというときの比較基準が変わったのだろうし、出産の例に関してはその関心度の違いから女学生の方がより細かい分解をしたんだと思う。また、小学生の国語の文書の解釈は、筆者が新たな解釈の切り口を読者に与えることによってこんな解釈の仕方があるんだということを、気付かせてくれている。  結局、これら三つとも、解釈のための比較基準、分解尺度の違いや切り口・軸・視点といったものが異なると、同じ情報を得てもわかったというレベルに大きな開きができてしまうことを示しているんだと思う。

わかったつもりの観察法?

「わからない」と「わかった」の間にある「わかったつもり」、こいつが曲者ですよね。この3つの状態の違いは、外から見て観察できるのでしょうか?「わからない」状態のとき、人は調べる、聞くなど、わかるための行動をとります。「わかった」状態のとき、わかる前の状態に比較すると、ある条件下での行動が変化します。  「わかった」ら、たとえばどんな風に行動が変化するのか。以前私の父がこんな話をしてくれました。  近所のおばさんのご主人が、アルツハイマー病にかかってしまいました。それからそのおばさんはずっと 「困ったことになった。なんで私だけがこんな目に」と人に会うたびにこぼしていました。  ある日、父がそのおばさんに言いました。「アルツハイマーは残念ながら進む病気。でも今ご主人は自分で身の回りのこともできるし、散歩もできる。いま、そのことを幸せだとおもわずに、後になってあの時は幸せだったのに、といくらいっても取り返しがつかないですよ。」  それを聞いたおばさんは、「そうですね、今は幸せなんですね。」と返事をして帰っていきました。  以後、そのおばさんは愚痴を一切言わなくなったそうです。おばさんは、自分にとっての幸せとは何かが「わかった」ので、そのあとの行動が変化したのでしょう。「わかった」らこれぐらい劇的に行動が変化するのです。  では、「わからない」と「わかった」の間にある「わかったつもり」だとどうなるか。わかるための行動もしないし、わかったことによる行動の変化もない。外からみて行動が何も変化しないのが「わかったつもり」なのではないでしょうか。

わかったつもり

koppeさん、話をそらしましたね。しかたがないので、私のほうから口火を切ります。   知的生産性を突き詰めるに際して検討しておかなければならないことがあると思っています。 それは「わかったつもり」という人の頭の中の状態です。  ある情報を入手したとします。しかし、その情報がその情報を得た場面(前後の場面を含む)と照らし合わせたとき適切に理解できたなかったとしたら、それはどのようなことになるのでしょうか? その理解に基づいて思考を巡らします。そしてその結果を文書にまとめます。もちろんこの二つはきれいに分かれていて順序だてられているものではありません。考えながら文書を書き、書きながら考えています。そして、仮にその知的生産作業に2時間を要したとします。  ところが、そもそもその文書を書くための元情報が適切に理解できていなかったらどうなるのでしょうか? おそらくその文書は意味をなさないのではないでしょうか? もしそうだとしたら、この2時間の作業においての生産物の価値は無し。すなわち、知的生産性は0ということになります。  この問題の整理を出発点に置かないと、今後の検討がふらふらするような気がしてなりません。

「わかる」話を始める前に

知的生産性追求の長い道のりに足を踏み入れたきっかけは、自分たちが提供しているシステムと利用者の真のニーズの間の隔たりの大きさを実感したことでした。  私たちは、ナレッジシステムやポータルシステム等に代表される情報活用のためのシステムをお客様企業に提供する仕事をしているのですが、開発事業からソリューション事業に転換を図ろうとしていた自分たちの組織の実態を考えたときに「ポータルにいくら情報を出しても気づかない!」「ナレッジシステムで情報を共有しただけではナレッジは伝播しない!」という強烈な実感があったのです。  なぜ同じ情報に接しても気づく人と気づかない人がいるのか? そこにはどんな違いがあるのか? なぜナレッジが伝播しないのか? そもそも私たちが組織のメンバに伝播したいナレッジとは何なのか? 疑問は次々に沸いてきました。それをちょっとづつ紐解いていったら、いつかは私たちの悩みの解決方法が分かるかもしれない、それは、同じような悩みを持つ人たちの役に立つかもしれないと、歩き出したというわけです。  まずは、「わかる」ということがどこまで「わかった」のか、ぼちぼち話してみましょうか。

最初のお題「わかる」

そもそも、なぜこのようなブログサイトを立ち上げたのでしょうか? 我々は仕事柄から「知的生産性」や「ナレッジマネジメント」というキーワードに常に絡んでいます。しかし、そのような中、このキーワードを突き詰めれば突き詰めるほど訳が分からなくなってしまうのです。現状のITという切り口から見れば、結局行き着く先は「情報共有」とその先の「検索」に行き着き、それらの本質とはずれたところに着地してしまいます。また、経営という観点から見ると組織論と知的資産の抽象的な話とそこから先はその抽象的な切り口から分析した事例紹介という形に行き着きます。また、社会学的には、経営より一段広い視点での組織論から社会的知識共有の話になってしまいます。  結局、「知的生産性」や「ナレッジマネジメント」とは何ぞやの本命が未だに見えないのが実情ではないでしょうか?  これからは当面、そのことについて過去考えてきたことの経緯をお話させていただきたいと考えています。そして、その話が一通り終わった後、新たな出発をこのブログの中でできればと考えています。  前置きが長くなりましたが、最初のお題は「わかる」ということです。では、koppeさんよろしくお願いします。

はじめまして

  mokurenの相方、koppeです。どうも相方の言葉は難しくていけません。ちょっと小難しいテーマですが誰にでもわかりやすいことばで紐解いていきたいと思いますので、よろしくお付き合いくださいませ。

はじめに

 どうも、mokurenです。今日から、知的生産性やナレッジといった言葉に代表される領域のことについて真剣にかつマイペースで追求していきたいと思います。話は、このあと自己紹介するもう一人の相方と二人で進めていく予定です。気長にお付き合いいただければと思います。