わかったつもり

koppeさん、話をそらしましたね。しかたがないので、私のほうから口火を切ります。 
 知的生産性を突き詰めるに際して検討しておかなければならないことがあると思っています。 それは「わかったつもり」という人の頭の中の状態です。
 ある情報を入手したとします。しかし、その情報がその情報を得た場面(前後の場面を含む)と照らし合わせたとき適切に理解できたなかったとしたら、それはどのようなことになるのでしょうか? その理解に基づいて思考を巡らします。そしてその結果を文書にまとめます。もちろんこの二つはきれいに分かれていて順序だてられているものではありません。考えながら文書を書き、書きながら考えています。そして、仮にその知的生産作業に2時間を要したとします。
 ところが、そもそもその文書を書くための元情報が適切に理解できていなかったらどうなるのでしょうか? おそらくその文書は意味をなさないのではないでしょうか? もしそうだとしたら、この2時間の作業においての生産物の価値は無し。すなわち、知的生産性は0ということになります。
 この問題の整理を出発点に置かないと、今後の検討がふらふらするような気がしてなりません。

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