「分ける」と「分かる」をたとえると

「分ける」と「分かる」。なるほど、言葉ってよくできていますね。確かに分からなかったものが分かるとまるでカメラのピントが合っていくように、対象の姿かたちの境界線がはっきりして、対象以外のものから分離されていくような感じがします。
 前の記事で書いた晩御飯の献立を具体化するための質問をよく見てみると、晩御飯として考えられるさまざまな献立をいくつかに分類して相手に選んでもらって献立を絞り込んでいます。「和食、洋食、中華」は料理のスタイルで、「肉か魚か」はメインディッシュの主な食材で、「食べられないまたは嫌いなものとそうでないもの」は、相手が食べられるかどうかで分類したものです。こうしてみると、違う分類の仕方で質問していくほうが効率よく具体化や絞込みができるのかもしれません。
 
 と、ここまで書いたところで、「この人はわかってないなあ」と感じるケースが前の記事で書いたケースの他にもあることに思い当たりました。
 1つ目は「和食、洋食、中華のどれ?」と聞かれずに「洋食と中華のどっち?」と聞かれる場合です。つまり、献立全体を大きく分類したときにどこかの分類がすっぽり抜けていて、思わず「和食はどうしたの?」と突っ込みたくなります。
 2つ目は「肉か魚のどっち?」と聞かれずに「肉か丼のどっち?」と聞かれる場合です。つまり、違う分類のものを組み合わせているせいで分類間がきれいに分かれずに重なりができていて、「すき焼き丼はどっちって答えればいいの?」と突っ込みたくなります。
 どちらの場合も、この人は献立をあまり知らないないぁ、料理のことをよく分かってないなぁと感じますね。
 このように、「分かる」ための分け方は、ただ分ければいいというわけではなく、抜けや重なりがないように、きれいに分ける必要があるようです。これはロジカルシンキングでいうMECEの考え方に一致しているのではないでしょうか。

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