わかったつもりは検出されていない?

 「わかったつもりの状態を検出する。」、これって非常に難しいですよね。しかし、検出されていないかといえばそうでもない。
 たとえば、議事録などがそうじゃないかな。議事録はその会議に参加した人のうちの誰かが書きますよね。ところが、その書き上げられた議事録の内容を他の参加した人たちが見ると、ここの「記述がおかしい」、「この内容が抜けている」といった指摘がおこり、議事録を書いた人の「わかったつもり」の状態を指摘します。このように考えると「わかったつもり」の状態は日常の仕事場においてそれなりの検出がなされているんじゃないかと思う。 
 ところが、これを知的生産性という観点から見ると三つの問題があるように思える。一つは、そもそも指摘を受けることがない状態でその議事録が書かれていたら、それを修正するという追加の知的作業が発生しない、ということ。つぎにそれに付随することであるけれど、指摘する、という追加知的作業が発生すること。それにもう一つは、そもそも何をもってすれば指摘されない状態であるのか?、ということを判断する基準。
 前者の二つは、そもそも知的作業は一人の人間では完結しないということが普遍的であると捉え、さらにそれにたいして「わかったつもりの状態を検出する。」という作業もそれに付随して発生する普遍的な知的作業であると捉えると、ムダでなくなってしまう。しかし、そのことを普遍的に捉えず、書き上げるより前に「わかったつもりの状態を検出する。」ということを考えれば、そこにはムダが含まれるという考え方が生まれてくる。
 三つ目は、その前者二つの考えのどちらを採用すべきかの判断規準が作れるか?ということの問いかけになると思う。もし、指摘される状態がどういうものか予め設定できないのであれば、書き上げたものにムダは存在しない。逆に、指摘される状態がどういうものか予め設定できるのであれば、それにはムダが存在する、といえるのではないのかと思う。 
「わかったつもりの状態を検出する。」を突き詰めるのであれば、このあたりを検討していく必要があるんじゃないのかな。

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